たま葱と鰹ぶし

その時私はまた海の底の蟹のことを思い浮かべた。雲がわきかえり、海がうねるにつれて、食欲が募り、岩間の匍行がせわしくなり、白い肉が熟れていく。卵巣の成育も空と海の動きの一部であり、岩角で醜悪な鋏みをもわもわと動かすのも海のうねりを感じて藻が揺れ動くのと少しも変わりがない。それなのに蟹は重い甲羅を引きずってまるで生きていくことがそのまま、一種の病のように見るからに苦しそうに海底を這いまわっている。甲羅ができる前には半透明の膜につつまれたプランクトンの仲間として海中を漂い流れ隅々ほかの土き物の餌食になるのも、ほとんど死とさえ言えなかった。だが甲羅ができてからというもの、どんなに空と海と感応して生長しても蟹の生命はもう甲羅の中から、歩も外へひろがり出ることができない。そして蟹はわれとわが生命に病んで、刻一刻と甲羅の中に死を育てていく。無数の卵を海中へ放出して、再び自然の中へおのれの存在を拡散させようとしても結局は何の救いにもならない。その後にも蟹の生命は甲羅の中に残りそのまま甲羅の中で最後の異和感を死ぬ。紅い卵巣の中で鍼が黒く錆ついていく。

(古井由吉『雪の下の蟹』)